AID発がん

 正常細胞の遺伝子に突然変異が入り、増殖を制御する仕組みが破綻する結果、がん細胞が生まれると理解されている。しかし、どのような仕組みで遺伝子の変異が誘導されるかは、胃がん・大腸がん・肝がん・肺がんなど死因の大部分を占めるがんにおいても謎に包まれている。ヘリコバクターピロリ菌が胃がんの原因となり、肝炎ウイルスが肝がんの原因となり、喫煙やアスベストが肺がんの原因になることはほぼ確実であるが、それら発がん因子がどのようにして遺伝子の変異に結びついているのかはよく分かっていない。一方では発がんの素地として炎症の存在が近年注目されている。炎症に伴って誘導される「何か」が遺伝子の変異を誘導していると考えられる。

 木下研究員がこれまで研究のテーマとしてきた AID (activation-induced cytidine deaminase) は多様な抗体を生み出すために必須の酵素である。その作用は抗体遺伝子に突然変異を誘導することであり、その頻度は自然に生じる変異頻度のなんと100万倍である。AID は抗体を産生するBリンパ球が刺激されたときにリンパ球で作られ、抗体遺伝子の変異だけでなく、その他の遺伝子に変異を入れることもある。その結果、リンパ球のがんであるリンパ腫や白血病を引き起こすと考えられている。本研究室では AID がリンパ球だけでなく、胃、肺、肝臓などでも炎症刺激に伴って一時的に作られ、それらの臓器の発がんに AID が関与する可能性を検討している。

 これまでの研究の結果をまとめると、

  1. AID トランスジェニックマウスでは肝臓腫瘍が多発した。その腫瘍の遺伝子を調べると p53 遺伝子(最も有名な腫瘍抑制遺伝子でヒトでは TP53 に相当)にヒト腫瘍でみられる変異が多数同定された。[論文44
  2. AID トランスジェニックマウスの肺では細胞死が正常を上回る頻度で起きていて、常に肺胞が再生されていた。この再生組織では AID が遺伝子変異を生み出す結果、ごく一部の再生組織が腫瘍化するものと考えられた。[論文53]この現象をヒトのがんに拡大解釈すると、炎症に伴ってなぜ「がん」ができるのかを理解できるかもしれない。何らかの刺激で炎症が起こると、細胞が破壊され、組織再生がはじまる。炎症刺激にさらされる再生組織で AID が発現し、がん関連遺伝が変異する。免疫系による排除を免れて、かつ、増殖能力を高めた細胞が腫瘍として大きくなる。「がん」になるためには、さらに転移する能力を獲得する必要がある。
  3. 2種類の化学物質をマウスの皮膚に塗布して、皮膚がんを誘発する実験では、AID 遺伝子の欠損により皮膚腫瘍の頻度が減少することがわかった。また、化学物質の1つが皮膚細胞に作用すると AID が生産されることを示した。これらのことから、皮膚腫瘍の発生に AID が関与することが示唆された。[論文55

現在は、ヒトの発がんに AID が関与していることを明らかにする計画を進めている。(総説英語論文はこちら)(日本語総説